第37回 清明の章
2023年05月25日
お題:視力、忘春、憂う
年を経るごとに視力が衰えてきていた。毎年の春、桜狩のために生きているくらい好きなつもりで、花見にコンタクトを入れて臨んだ時、見える景色の違いにそう痛み入った。
花の輪郭の確かなこと。色の乱れず萼の紅の濃いこと。半透明の、湿った花弁の影の青白さ。
そんなものが、気付かないうち、裸眼の世界からのろのろと忘れられてきていたらしいのをようやく知った。幹の太い、青錆を身に纏った老木の咲かせる花は、それでも瑞々しく開いている。それを憂うのは、目の衰えた人間一人。
振り返る。振り返ると、降り積もった花弁のひとつひとつの丸さ、色の濃い淡い、そのちいさな皺まで見える。
遠視と近視と乱視をそうとも憂うことなく歩いてきた中で忘れてきたもの。
忘春。大切なものを忘れてきた私に、ふさわしい言葉だった。